人間には2つの価値「する事」の価値(行い、仕事、作品)と「ある事」の価値(その存在、いまここに生きている事)があって、本来「ある事」の価値が圧倒的に大きいのだけど。する事の価値は金銭に変換できることが多いので、多くの人は、人物の「する事」の価値にしか目をとめない。
そして「あなたの存在には無限の価値があるんだよ」と言われてもあまりピンと来ない人も多いかもしれない。「私は何もできないし…」って、でもそれは「する事」の価値の話で、そうじゃなくてあなたが今ここに居ることに無限の価値があるんだとわかってほしい。
それでもまだ「なにか「する事」ができない」事にコンプレックスを持ち、自分が無価値なように感じる人のために、する事のミニマムを考えてみよう。つまり何もできないと思われている人の典型は?
たとえば「寝たきりの人」は何もできない。
そういうミニマムな状態の時に人は何ができるだろうか?
「主(神様)は人生の最後に最も尊い仕事を残される。祈ることである。」
何もできないと思われる時に僕達は祈ることができる。
(ここでは祈りの力には触れない。しかし、祈りはアルファでありオメガでもある。
物事が始まる前には誰かの祈りがあり、物事が成ったあとにはまた多くの人の感謝の祈りがある。
実際には祈り無くしてなにも始まらないし完成もしないのだ。思い起こせば僕たちは知らず知らずに祈っているはずだ。)
祈りこそが 「する事」のミニマムであり最大の仕事でありそして「ある事」へとつながるのだ。
なぜか? 「寝たきり」というミニマムを考えたけど、もうすこし極限を考えてみよう。
寝たきりでもまだ意識があって言語があるから祈りができるとは思わなかった?
もし意識もなく言語も失われたらもう祈りさえできないのではないかと?
ぼくはクリスチャンなので聖書の言葉で紹介するけどきっと他の宗教でも同じ事を言ってるはずなので探してほしい。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」ローマ8:26
聖書の言う御霊とは神様の事で祈りは神様のうめきであるという、そしてそれは私たちの魂のうめきでもある。つまり祈りの本質とは言語ではなく「魂のうめき」であるという事だ。
言葉が出ない時も私たちの魂はその存在によって深くうめくように祈っているのだ。
意識もなく言葉もない状態でも私たちは祈ることができるのだ。
むしろ魂の存在こそが祈りの本質であって、私たちの価値、すなわち「ある事」の価値と「する事」の価値は祈りによってつながっていると言える。
私たちの「する事」はいかなることであってもすべて私たちが「ある事」によってささえられている。
私たちの「ある事」の本質は祈りであってすべての「する事」は祈りにはじまり「祈り」によって完成する。私たちは私の為にも祈るが、隣人の為にも祈る。私たちはお互いの祈りによってつながっているのだ。
以上、いかなる人の存在にも無限の価値があることがおわかりいただけただろうか?
おまえはクリスチャンだから祈る事に過大な価値を置いているだけで本来祈りは無能であって無価値ではないか?と考える人もいるかもしれない。
では日本国民統合の象徴である陛下のもっとも大切な仕事はなにか考えたことがあるかな?
陛下の主なお仕事は祈りです。 陛下は「ある事」によって祈る存在なのだ。