#モノファイナル と #セミファイナル

タルコフスキーの映画ストーカーごっこをやっていると

風景というのは記号であってメッセージなのだということがわかる。
そして人間は風景からメッセージを受け取るような構造に作られているのだな。

モノファイナルは人工物に焦点を当てているが、これが木や草花、自然の地形などを対象してそこからメッセージを読み取るならそれは容易に神からのメッセージとなる。原始的なアニミズムである。

ホイールキャップの位置のように日々表情を変える モノファイナル はもはや生きているような気さえしてくる。もちろんホイールキャップが生きてるわけではないが、そこにかかわる人間がいると言う意味で環境としては たしかにそれは生きているのだ。

それに対して セミファイナルは すこしちがった様相を呈する。
モノファイナルが風景であり環境そのもの なのに比べてセミファイナルはセミの個性、個体としての主張が環境要素よりもより強く感じられる。

死んだばかりのセミはまだ個体性が強く 「俺感」が漂っているが それがクルマ踏まれ、アリにたかられると徐々に環境に溶け込んでいきセミの個性は消失してゆく。

モノファイナルは最初からその存在が環境であるがゆえに継続性を持っていつまでもそこでメッセージを発し続けるのにくらべセミファイナルは個性として突然出現し一瞬にして環境の中に溶けて見えなくなる。