「結局はヒトだ」という言説への違和感

よく言われる「結局はヒトだ」という言説への違和感がある。

たとえば 「まんがは結局はヒトを描く」「人が描かれてない作品はダメだ」みたいな使い方をする。
「結局はヒトだ」とうい言説はよくわかるのだが、「結局はヒト」であるなら僕たちは永遠に中国には勝てないような気がする。中国には人しかないすべて人、全部人の国だからだ。

日本はよくもわるくも んなこと言っても「ひとばかりじゃのーて、自然もあるでよ」の国ではないかと思うのだ、国というのがおおげさなら文化あるは感覚でもいい。

ヒトはこう生きた、でも自然はこうだった。(その逆でもいい 自然はこうだった、ヒトはそのなかでこう生きた) という対比こそが日本の文化ではないか? ただ「人だけの話」であるならそれは中国に圧倒的深みがあるだろう。そこに人の力ではどうしようもない自然がからんでくるところが日本の日本たるゆえんではないかと思うのだがいかがか?

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